ベートーヴェンが作曲した2番目の交響曲、それが交響曲第2番ですが、有名な第九(交響曲第9番)や第5番≪運命≫に比べるとどんな曲か知らないという人も多いのではないでしょうか?
それもそのはず、第2番は、ベートーヴェンの交響曲の中でおそらく最も演奏されていない交響曲だからです(笑)
でも不思議なことに交響曲第2番という曲は知らないけどハイリゲンシュタットの遺書は知っているという言う人も多いはず。
この交響曲はハイリゲンシュタットの遺書と密接に関係している上に、ベートーヴェンの交響曲を語る上でなくてはならない交響曲なので、関係性なども含めて徹底解説していきますね!
Contents
ベートーヴェン/交響曲第2番の基本情報
作曲家:ルート・ヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ドイツの作曲家)
作曲時期:1801-1802年 ※1770年生まれのベートーヴェンが31-32歳の時の作品。
※作曲場所※ハイリゲンシュタット(オーストリアのウィーン)
初演:1803年4月5日ウィーン近郊アン・デア・ウィーン劇場にて。
楽章構成:4楽章 構成
演奏時間:だいたい35分程度
ベートーヴェン作曲の交響曲第2番とハイリゲンシュタットの遺書との関係
早速ですが、ハイリゲンシュタットの遺書をご存じでしょうか。
聞いたことはあるという人も多いでしょうが、これはベートーヴェンが耳が聞こえなくなる症状が悪化し、現在のウィーンの一部であるハイリゲンシュタットで弟のカールとヨハンに向けて書いた手紙のことです。
ハイリゲンシュタットの遺書の内容
この手紙に書かれていたことを少し省略しながらまとめる以下のようになります。
全文を読みたい方は以下の引用のURLのリンクへ飛んでください。無料で手紙の全文を読むことができます。
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医者への恨み
――無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては恢復するであろうとの希望に歳から歳へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなった――
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普通の生活が出来なくなった哀しみ
――社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々から孤り遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。――
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作曲家として耳が聞こえないことへの絶望と作曲家としてのプライド
――ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝け出しに行くことがどうして私にできようか!―何としてもそれはできない!――
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病状がバレないかという不安
――人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。――
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耳が聞こえないという屈辱
――ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう――
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自分の命を繋ぎとめた芸術
――私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ――
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”生きる”覚悟
――自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている――
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弟たちへの赦し
――私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。二人で誠実にそれを分けよ。仲よくして互いに助け合え。お前たちが私に逆らってした行ないは、もうずっと以前から私は赦している。――
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弟・友人への感謝
――弟カルルよ、近頃お前が私に示してくれた好意に対しては特に礼をいう。お前たちがこの先私よりは幸福な、心痛の無い生活をすることは私の願いだ――
――すべての友人、特にリヒノフスキー公爵とシュミット教授に感謝する。――
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人生における悟り
徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。
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”死”への覚悟
――芸術の天才を十分展開するだけの機会をまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにもせよ、死は速く来過ぎるといわねばならない。今少しおそく来ることを私は望むだろう。
――しかしそれでも私は満足する。死は私を果てしの無い苦悩の状態から解放してくれるではないか?
――来たいときに何時でも来るがいい。私は敢然と汝(死)を迎えよう。――
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遺言:最後の願い
――ではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えて来たのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ――
ハイリゲンシュタットの遺書が語るベートーヴェンの音楽のすべて
ハイリゲンシュタットの遺書には、恨み・悲しみ・絶望・プライド・不安・屈辱・芸術・”生”と”死”の覚悟・人を赦す心・感謝・悟り・願いが込められています。
・・・ベートーヴェンはこの手紙を書いている時、どんな気持ちだったのでしょうか。。
人が一生をかけて感じるような全ての感情を一気に押し寄せたような言い表しようのない現実。
この手紙はハイリゲンシュタットで1802年10月6日に書かれています。
交響曲第2番は同じくハイリゲンシュタットで同年の3月に完成されたと言われています。
つまり、ベートーヴェンは聴覚が落ちていく中で遺書を残すような精神状態の中、自分の音楽を模索し作曲したのが交響曲第2番なのです。
それなのに交響曲第2番は曲の一部として暗い部分はあるものの、絶望的に暗い音楽では全くなく二長調の曲(明るい曲)です。
何たる精神の強さ・・・。
これだけの想いをしているベートーヴェンだからこそ、後に作曲された曲たちが私たちの心に深く突き刺さるのではないでしょうか。
ベートーヴェンが交響曲第2番で試した3つの挑戦
ベートーヴェンは交響曲第2番を作曲するにあたり、第1番で試せなかったことを大きく3つ挑戦しています。
少々専門的な話になりますが知っていると更に音楽を楽しむことができますよ!
交響曲第2番で歴史上初めて取り入れた『スケルツォ』楽章
そもそも『スケルツォ』楽章ってなんだよ!!という方もいるかもしれませんのでその方は、こちらの記事をご覧ください。
『スケルツォの楽章って何?メヌエットの聴きわけは踊れるか否か!?』
スケルツォを取り入れたベートーヴェンの意図は実は2つあったと言われています。
理由①師であるハイドンへの反抗心
ベートーヴェンの初期の作風は確かに師であるハイドンや、尊敬していたモーツァルトの影響を受けていますが、ハイドンに対しては反抗心がありました。
その理由を知りたい方は、『ベートーヴェンが交響曲第1番を作曲した背景・理由は?実はハイドンが大嫌いな作曲家!?』をご覧ください。
ハイドンはスケルツォを交響曲に入れる実験はしたものの、それをやり遂げることがはしませんでした。
”だからこそ”ベートーヴェンはスケルツォを入れたのかもしれません。
理由②フランス革命に対する配慮
クラシック音楽の世界はいつでも社会情勢と密に繋がっていて、音楽一つで亡命をしなければならない状況も稀ではない状況でした。
そして当時の社会情勢として、1789-1795年までフランス革命が起こっており、貴族の権力社会が崩壊しました。
メヌエットはそもそもフランスの貴族の中で踊られていた舞踊なのでそこへの配慮があった可能性はあります。
スケルツォと楽譜に記載したのは交響曲第2番からで1800年に作曲された第1番の3楽章はメヌエットとは書かれているものの実際の音楽と言えばスケルツォと捉えられてもおかしくない音楽の作りをしています。
実際に未だに第1番の3楽章はスケルツォなのかメヌエットなのかという議論が続いています。
交響曲第2番の序奏部分を拡大
序奏部分というのは交響曲第2番の1楽章の冒頭(Adagio molto)から曲のテンポが速くなるところ(Allegro Allegro con brio)のところまで。
動画の【0:05-2:54】までの約2分50秒のことです。
比べるのはもちろん第1番の序奏部分ですね。
テンポ設定などの統一性も考えて上記の動画と同じバレンボイムの指揮者で比較してみましょう。
交響曲第1番の1楽章の序奏も冒頭(Adagio molto)から曲のテンポが速くなるところ(Allegro Allegro con brio)のところまで。
動画の【4:05-5:21】までの約1分15秒のこと。
比べてみると約1分30秒ほどの第2番の時の方が序奏を拡大しているのがわかるでしょう。交響曲第2番でチェロとコントラバスを独立
チャイコフスキーやドヴォルザークなどロマン派の音楽になると当たり前のなのですが、モーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンの時代では、チェロとコントラバスの楽譜は1つだけで2つのパートが同じ動きをするのが当たり前でした。
もちろん同じ動きをしていても楽器は違うので音の高さは1オクターブ分違います。
ベートーヴェンはそこに目をつけ、交響曲第2番で初めてチェロとコントラバスに別々の動きをさせる楽譜を書いたのです。
これもその時の聴衆からすると驚きの一つであったことは間違いありません。
交響曲第2番で試した3つの挑戦の結果
そんな、3つの挑戦を果たしたベートーヴェンの交響曲第2番の挑戦の結果の批評は・・・『奇を衒(てら)いすぎている』と言われてしまいました(笑)
要は変なことして気を引こうとしすぎ、と敬遠されたわけです…。
そんな批評をされ、今となっては演奏の機会も少ない交響曲第2番であるものの、後に大きな流れを作る素材の一つになったことは間違いないと言えます。
さらにこの交響曲第2番の曲の一部(モチーフ)は、あの交響曲第9番でも使われていますよ。
それはまた交響曲第9番の時に紹介しますね。
ベートーヴェン/交響曲第2番のおすすめ音源
サイモン・ラトルがウィーン・フィルを連れて日本のサントリーホールで演奏した時のものです。
冒頭には貴重なインタビュー付きですよ!!
指揮者ーサイモン・ラトル
オーケストラーウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
”ベートーヴェンの交響曲第2番の重要性を徹底解説!!ハイリゲンシュタットの遺書に込められた真の想いとは!?”まとめ
交響曲第2番はベートーヴェンにとって、そして、ベートーヴェン以降の作曲家にとって紛れもなく変革を起こした1曲です。
これがあったから第九がある。
これがあったから古典からロマンという”殻を破る”ことが出来ていったのでしょう。
ベートーヴェンの命は交響曲第9番を1824年に作曲し終えて1826年3月に交響曲第10番に着手しながら未完成のままこの世を去りました。
死を迎える最後までベートーヴェンは音楽家、芸術家であり続けたのです。
ベートーヴェンのハイリゲンシュタットの遺書はまさにベートーヴェンの音楽の全てであったと言えるのではないでしょうか。
そして、苦悩の中で生き続けたベートーヴェンの『死んだのちも忘れないでくれ』という最後の願い”だけ”は叶い、弟のカール達のみならず、250年の時を越えた今を生きる私たち、そしてこれからの未来でも忘れられることはないでしょう。
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